米国オーケストラの未来に陰を落とす危機は存在しない、と頑固に言い張る人と私は去年議論をした。
解散、破産、コンサートホール閉鎖ストライキ、デトロイト交響楽団における有名演奏家の長期ストライキ、フィラデルフィア交響楽団の破産宣告など、オーケストラが直面する逆境に関する多くの事実にもかかわらず、危機は存在しないと私の論争相手は主張したのである。たぶん私の論争相手は単に、悪化し続ける現実を直視することが出来なかったのであろう。それが出来るようになるためには、従来の考え方から大きく転換した考え、もしくは新たな考案を、オーケストラを含むシステム全体に対して行う必要がある。オーケストラは極めて重要であり、これを見捨てることは出来ない、と私は考える。
ところで、状況は今年ますます悪くなった。アトランタ、ミネソタ、シカゴ、インディアナポリス、セントポール室内管弦楽団、そしてジャクソンビルにおいてストライキやコンサートホール閉鎖が起こった。経営陣、演奏家、そしてこの件に関心を示している人たちのブログやウェブサイトを見て、私は敵意に満ちた書き込みの応酬にうんざりした。これは泥沼の内戦そのものだ。特に演奏家のブログは、彼らの踏みにじられた希望、夢、目標を痛々しく伝えている。お互いの結びつきと信頼関係が壊れたこの状況からオーケストラがどのように再生するのか、私には全く見当がつかない。現在起こっている議論は2面性を有しているようだ。演奏家と組合は、現在の問題は周期的なもので、長く続くものではないと言い張っている。問題は結局、経営側の落ち度によるものだから、しばらく抵抗を続けていればそのうち万事うまくゆくだろうと考えている。これに反して経営側は、問題は基本的に経済的かつ構造的なものであり、オーケストラが生き残る為には、厳格な経費削減を断行しなくてはならないと主張する。どうやらこれらの意見には妥協点が存在しないようだ。ということは、多くの人々が予測するように、オーケストラが社会から消滅するのを我々は目撃することになるのだろうか? 大演奏会はもう聴けなくなるのだろうか? コンサートホールは閉鎖され、演奏家たちは無職になってしまうのだろうか?
演奏家とオーケストラは至宝であり、それらの存在を社会から消してしまうことは、人生における最も楽しく魅惑的な経験を我々全員から奪ってしまうことになる。音楽の生演奏は、文明社会が私達に伝えたい最も深遠なものの幾つかを、即座に伝達するものである。
もしこの危機的状況の原因が、実のところお金ではなかったとしたらどうだろうか? 確かに経済的問題は考慮すべき大きな問題である。しかし、もっと深刻で根本的な原因がある為に、経済的な問題が単に表面に現れている、ということはないだろうか。真の原因は、正しいものや適切なものを正当に評価できる能力が世の中から失われつつある為だ、と私は思う。過去5000年間の如何なる時代よりも、ここ30年間にこの種の能力は大きく衰退した。我が国における観客数と予算が大幅に減少するこの状況下において、まだ受け入れられるのは、ごく限られた老舗オーケストラの形態だけだろう。おそらく私達は大きな転換期に遭遇しており、オーケストラのと社会の関わり全般について再構築できる大きなチャンスに直面しているのだろう。この機を活かして、交響楽と演奏家を社会の中心に据えてみてはどうだろうか? 彼らを社会の辺境の地で衰退させてゆく代わりに。
個々の演奏家には驚くべき能力、創造性、エネルギーがあるのだから、全体のシステムの方向性を我々が変えることが出来ないのだろうか? オーケストラを、演奏力だけを重視する方向ではなく、多角的な教育をする役割を担ってゆく方向に修正出来ないものだろうか? 社会が必要としているものをオーケストラが実際に提供し始めることによって、この方向修正はオーケストラと社会との関係を見直す第一歩となるだろう。適切さと正当さは、身近で手の届くところまで来ているのである。
しかし一体全体、これが意味している事は何だろうか? もし、教育があなたの第一目的であるとしたら、あなたが行う総ての事をこの観点から見ることになるだろう。まず第一に、多くのオーケストラはとても良い教育プログラムや社会プログラムを既に行っている。これらのプログラムを飛躍的に発展させることを私は提案する。これは、個々の演奏家や演奏家のグループによって生み出されるプログラムを含んでおり、これによって社会と長期的な関係を新たに築くことが出来るだろう。また、体育館や公園といった、どこでも地域社会の使用可能な施設における継続的な無料のコンサートも含むだろう。演奏プログラムは刷新され、何が起こるのか、どんな曲が聴けるのかを知りたいと思っている新たな聴衆の興味を刺激するだろう。総ては真面目に、かつ面白いやり方でね。
クリスチャン・サイエンス・プラザで演奏するNECウインドアンサンブル
教育に重点を置くことによって、演奏家の活動の場はコンサートホールから人々の住む地域社会へと移ることになるだろう。演奏家は、本質的な結びつきが社会と得られるのなら、メディアやテクノロジーなどの如何なる形態を用いてでも教育における自分の役割を果たしてゆくだろう。それは、音楽家という言葉の定義を拡張し、この言葉が教育芸術家を意味するようにもなるだろう。教育芸術家は教育と演奏の両方に携わるのだ。そして、単に音楽的な卓越性だけが重視される現在のオーディション制度は、大きく変えられるべきだ。今後は、高い演奏能力に加え、創造性、コミュニケーション能力、観客を楽しませる能力、様々な音楽スタイルに対応する能力など、音楽家が教育機関と社会に提供しうる能力に基づいて選抜が行われるべきだ。
どんな解決法を用いるにせよ、音楽家はそれらの解決法を自分で考えつくことを期待されており、また、そういう力を与えられている。何故なら、音楽家は奇想天外なことを実行する驚くべき能力を持っているからだ。これら総てのことに対する指導的役割は、音楽家、経営者、そして評議会が分担して行うだろう。これは、同等の信頼されたパートナーとしてだけではなく、教育的な使命における投資家パートナーとして行われるべきだ。もちろん、通常のコンサートも今後続けてゆくことになるだろうが、前述の創造エネルギーの流れの変化の為に、これまでとは全く異なった形態になるだろう。
これは芸術を民主化し、特権階級の手から芸術を奪うことになるのだろうか? たぶんそうだろう。しかし、このような再構築は政治的な行動ではない。むしろ、我々の住むこの世界の変化と、大型化を果たした社会の要望と期待を理解する事によって起こる、当然の帰着である。
では、お金の件に戻るとしよう。上述の事業をどうやって経済的に理に叶ったものにするか? この新しい観点は、強力な構成要素を含んでいる。それは、大胆な洞察を備えた考え方だ。それは、社会の要求に応える断固たる方法を示している。それは、内省のような内に向かうものではなく、外に目を向けたものだろう。そのような正当さを回復させる努力によって、今回の件は普通の事業ではない、ということを新しい資金提供者と財団に理解してもらえるだろう。その事業はむしろ、結びつきということ関しては新しい世界への跳躍であり、彼らのサポートに値するのである。
確かに、オーケストラは極めて重要で、見捨てることは出来ない。見捨てられないようにするためには、オーケストラは社会の声を聞き、人々が必要不可欠であると思うサービスを提供する必要がある。
(原文:
Why Music Is Important: The Orchestra Crisis)
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トニー・ウッドコック
ニューイングランド音楽院代表/span>
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